ザハ・ハディド考 Ⅰ


 最近、ザハ・ハディドの建築に注目している。彼女は2016年に65歳で亡くなっているので、今更な感もあるが、没後も続々と彼女設計の建築物が生まれて、おそらく評価は高まるばかりであろう。

↑ アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ・センター

 30歳ほどで独立して以来、10年間は実現した作品は無く、『アンビルドの女王』と呼ばれていた。
しかしながら建築技術の飛躍的向上とコンピュータの進化で、以前は無理とされていたデザインも可能となり、ポツリポツリと建造されるようになって行った。
そしてその純粋な美しさでもって、建築の歴史を書き換えるまでのスターとなったのだ。

 ザハ以前、建築士は圧倒的に男性のものであった。そもそも構造的なものは男性にアドバンテージがあると考えられて来た。
 コルビュジェやフランク・ロイド・ライトやミースなどのモダニズム建築からポスト・モダンのデコラティブなデザインが主流となって、奇想天外の形が一気に解禁された時期があった。
その代表例はフランク・O・ゲーリー。
彼のデザインは水平・垂直をぶち壊すエネルギッシュなもので、存在感は一際大きい。
ヘルツォーク&ド・ムーロンも未来的な外観を提供し、宝石のような趣きがある。
それと、建築自体を捻るデザインも流行した。

↑ フランク・O・ゲーリー マルケス・デ・リスカルというホテル

 しかし、ザハ・ハディドの登場で、それまで斬新に思われていたスター建築家の作品が少し古く見えてしまう現象が起きてしまったようだ。
あるいはそれまでの建築がどうしても観念的に見えてしまう現象を引き起こした、とも言うべきか、、。

 ザハ・ハディドの頭の中に当初はあったであろう『破壊』の要素は無くなっていったように思われる。
彼女の想念はシンプルに『創造』。
本来、破壊と創造は表裏の関係であり、何らかを破壊することで新しい何かが生まれるのだ。
しかしザハは破壊を軽々と飛び越えて、創造の領域を縦横無尽に飛翔する。
彼女の美意識に叶うまで形をブラッシュアップして、飽くなきエレガンスを表現する。それがおそらく内装まで徹底される。
『未来的』と評されることも多いが、何をもって未来とするか?あいまいなレッテルだ。ザハの作品は未来的でもあり、古代を思わせる曲線でもある。
少なくとも観念的な曲線ではない。
有機的な曲線。
一つ一つがまるで“生きもの”のようでもある。
つまり、ザハ・ハディドという子宮から生み出された『新しい生命体』なのであった。
新種の生きもの。
さらにその命を育てるのは、その建物を利用する市民である。市民に愛されてよくよく輝くものとなる。
命が輝く。

↑ ザハ・ハディド 中国の梅溪湖国際文化芸術センター

ザハの作品は掛け値なく美しい。
ただ、いつまでその命は続くのだろうか?
個人的にはコルビュジェ作品のように世界遺産となって欲しい。
しかし白くてシンプルで繊細な皮膚は古びていくことにあまり耐えられないように思う。メンテナンスは大変だ。さらに年間維持費も莫大なものとなろう。
そこにおいても、どれだけ市民に愛されるかだ。
ちょうどシドニーのオペラハウスがオーストラリアのアイコンになったように、あるいはタージ・マハールが世界共通の文化財となっているように、人々から愛され続ける必要がある。
それは市民の誇りとなることとイコールである。

 上野公園の西洋美術館(コルビュジェ設計)は他の周辺施設と違って独特な存在感とオーラを放っている。良い建築とはきっとそうしたものた。

ザハの建物がオーラを放ち続け、市民に愛されて初めて、その命は永遠のものとなる。