脱構築の建築家とされるザハ・ハディド。
少なくともモダニズムではない。
その作品はまるで生命体のようであり、また抽象彫刻のようでもある。
韓国ソウルにある東大門デザインプラザ
彫刻家に例えるなら、ハンス・アルプ。
曲線を極めた先駆者である。
或いはその存在はファッション界におけるプラダのようなものだ。遊び心があり、尖っていて、斬新だ。プラダの三代目は奇しくもミウッチャ・プラダ。女性である。
しかしながらザハ・ハディドはもういない。
私の主観において、建築界はザハ以前とザハ以後に分かれるかもしれない、という仮説を持っている。
ザハ以前は、男性的で観念的な建築。
ザハ以後は、女性的で感覚的な建築。
とザックリ言ってしまおう。
もちろん今後も水平垂直を徹底したモダニズム建築はたくさん建てられるし、それは空間的にも経済的にも効率が良い。
(例えば同じ立方体から最大の容積を持つ立体は球体でもなく、円柱でもなく、一辺の長さが同一な立方体。なので、区画が明快な都市の場合はどうしても四角い空間の方がお得感があるのだ。)
しかしガウディの主張がそうであったように、自然界には立方体や直方体は存在しないし、また近似的な立体も見当たらない。
人間が果たして快適に感じるのは本当にホワイトキューブなのだろうか?それは人間の本能に逆らっているかもしれない、という気づきを与えてくれるのはやはりザハ・ハディドの作品である。何故ならば、ザハの作品は『破壊による幻惑や混乱』をもたらすよりも、純粋に『創造による快樂と愉悦』をもたらすであろうから。
単にウネウネした妙な形を作っているのではない。人々を単に驚かそうとしているのでもない。
人々を感動させること。
人間の本然に立ち返らせてくれるような造形にまでグイッと踏み込んているのがザハのデザインだと思う。
(モダニズムを対立するものとして捉えるのは一時的なものだ。モダニズムはモダニズムで美しさがあるし、ザハ登場の革新性により、自らを更新してさらに美しくなって行くであろう。)
大きな意味でアートの領域にまで建築意識を高めてしまったザハ・ハディド以後はどうなるのであろうか?
彼女を継ぐ建築家はどのように現れるのか?
その疑問には一つ、簡単な解答が用意されている。
それはザハ・ハディド・アーキテクトという事務所である。
ザハの死後も継続してザハデザインを完成にまでこぎ着け、さらにザハが直接関わっていないデザインでさえこなし始めている。
ザハ・チルドレンとも言うべきスタッフは数百名に及ぶ。語られる言語はゆうに50カ国語を超えるらしい。
彼ら、優秀なスタッフが世界のコンペで戦って成果を挙げているのだ。
きっとそれはステイタスブランドにおけるエルメスやルイ・ヴィトンのようなものだ。創始者からバトンを受け継いでブランド価値を高めるデザイナーの面々。きっとまたザハ・アーキテクト事務所から独立して違った形にどんどん変異・拡大していくに違いない。
世界をもっとエレガントにして行くのは痛快だ。
ザハの死後に完成したドバイのMEホテル
私には一つの持論がある。
それは、『大きな建築物は周囲を威圧する分、そのデザインで周囲にサービスすべきである。』ということ。
つまり巨大な建造物はどうしても威圧的となり、市民から多くのものを奪ってしまう。(精神的な意味でも、物理的な意味でも。)
ならば、贖罪の意味もこめて、十全に市民に何らかを与えないといけない、というのが私の意見である。
20年前、30年前はボストモダンの反省、或いはカウンターからか、存在感を消す建築、透明な建築が流行った。
低層建築ならば、それも可能かもしれないが、高層建築ともなると、ガラス張りのビルで透明感があっても存在感はどうしても出てしまうもの。その上での解答は、『美しい建築』なのである。
そしてザハ・ハディドは見事にその答を提示した天才なのてあった。
ザハは死んでも、ザハの遺伝子は残された。ザハは一人の優秀なデザイナーでもあったが、指導者としても超優秀であったようだ。それは薫陶を受けたスタッフのインタビューによっても伺うことが出来る。
↑ 中国・深圳市に位置するビジネスおよび金融センター『Tower C(タワー C)』 これから建造される。
低層部分は公園と一体となり、市民に門戸が開かれている。
ちなみにザハ以後のザハ・ハディド・アーキテクトの提案の一例として、上海の高層建築計画がある。
そこでは、ザハのエレガンスとモダニズムの水平垂直が融合されている、と見ることも出来る。
↑中国省エネルギー・環境保護グループ(CECEP)の上海新本社ビル完成予想図
10年後、20年後の世界の風景がどのようなものになるか、私はワクワクしている。
了
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